生酛について

最近は「生酛」について興味を抱かれる方が業界内外でも増えてきたようで、素晴らしいことだなと思っています。しかし生酛は、酒税法でも定義されていませんし、また製法も規定されておらず、なかなかその形が判然としないところがあります。そこで私がよく質問を受ける点を中心に、我々で理解している範疇で、その歴史的背景を含めて、まとめてみたいと思っています。

 

1、「生酛」の名の由来について

「どうして生酛というのですか?」という質問をよく頂くのですが、それについて考えてみましょう。

「生酛」という名前はそんなに昔からある言葉ではありません。明治期には「普通酛」と呼ばれていました。もともと、江戸期では「寒酛」と称されておりました。なぜかといいますと、生酛系酒母は、仕込直後に米を溶かすために5〜6度の低温に置く作業が必要になります。初期は手で混ぜて溶かしていましたし、そのあとは酛擦りが開発されますが、こうした作業やその後に続く「打瀬」という工程は、雑菌汚染を防ぐため、低温で進めないとなりません。このため、生酛は冬でないと造ることができない酒母、つまり「寒酛」だったのです。

 

*なお「寒酛」があるのだから温暖期の酛もあるわけです。「菩提酛」(生米を使用して高めの温度で乳酸発酵させてから、酵母を発育させる方式)や「煮酛」(多様な菌が生育している酒母を一旦高い熱にさらして、強健な酵母だけをうまく生き残らせる方式)などの酒母がそれです。日本酒は、江戸期中ごろまでは、真夏を除いて年中作られていたのです。

 

 

さて、「寒酛」は明治期には(「菩提酛」などと対比して)「普通酛」とまた名を変えて言われるようになりましたが、その後、明治終盤期に「速醸酒母」が開発された後に、「普通酛」ではなく「生酛」という名前が当てられるようになったようです。つまり「速醸」のほうが、国策的にも現場的にも「普通」な存在になっていったためなんでしょう。

 

”明治、大正、昭和に入ってから、これらの読みかたも変わり、(中略)『寒造り仕込みの酛』を普通酛、のちに生酛と言うようになった”「日本酒の来た道」堀江修二

 

そして、「生酛(きもと)」の由来ですが、これは仕込み直後の低温期間を生酛(なまもと)と呼んでいたことが由来のようです。仕込みから、いわゆる初暖気(はつだき)という加熱作業が始まる前の期間を「なまもと」と呼ぶのですが、これが換喩的にこの製法の名称となったということです。

「菩提酛」にも、また当時提案された速醸酒母にも「打瀬」的な低温期間はありません。(現在の速醸酒母製法には低温期間があるのですが、開発当初は、仕込みはいきなり20度といった高めの温度で仕込むのが常法でありました)

 

”生酛の名前の由来は定かではないが、一般的に仕込み(酛立て)から打瀬までを生酛(なまもと)といわれており、丸亀税務監督局編集の『実験清酒醸造法講義』の中に『普通酛を生酛と云うのは此の生酛(なまもと)期間が長いからである』と記述されています” 「『生酛造り』に関する一考察」溝口晴彦

 

 

ですから、「酛摺り」のあるなしは、「生酛」を定義するものではありません。

「酛摺り」自体は、「寒酛」の技術発展の中でも、江戸中期から後期に開発された手段でありました。伊丹でその原型が発祥し、灘で最終的に完成されたようです。しかし、詳細な技術は杜氏集団の口伝によって伝達されていたようで、江戸期の酛摺りについての詳細な文献が見つかりません——。

しかし「酛擦り」以前の「寒酛」の手法についての文献はけっこうあります。もっとも信頼のおける明確な文献は、元禄期の「寒元造様極意伝」ですが、このころは酛摺りは発明されておらず、半切り桶のなかで、(流派によっては)20日以上も手酛(手で混ぜること)や、櫂入れを行い続けて米を溶かすことが記されています。これは、相当に手間暇も時間もかかります。この手酛を省くと、表面にカビが生えたりしますから、衛生的にも大切な作業です。

しかし、「酛摺り」が登場して製法が一変します。酛摺りを行うことにより、短時間で物量を液状化して、桶に仕込んでしまえば衛生度も上がりますし、製造期間も短縮します。実際、手酛だけでとかしていた時代よりも、酛摺りをすることで10日ほど短縮しています。酛摺り型の「寒酛」を完成に導いた灘地方は、質量とも他地域を圧倒することになります。

 

*しかしながら、当蔵はいわゆる櫂棒での酛摺りはやっていません。歴史的な製法を様々に検証した後で、さらに低汲水歩合を達成し、かつ過剰な酛摺りによる糖化率の低下を防ぐため、ひたすら手酛で調整しながらゆっくり溶かすという、元禄期の伊丹地方のスタイルを参考にした手法を現時点では採用しています。手酛中、混ぜながら手で膨張/軟化した麹を押しつぶすくらいのことはしますから、酛摺りのメカニズムも適宜に取り入れています。とはいえ、一般的には36時間以内で済む酛寄せまでが、8〜10日ほどかかるので、時間がかかりコストもかかります。

我々がこの方式を採用している理由ですが、まず一般的な酛摺り型生酛は、類まれなる酒造適正水である硬水「宮水」を擁す「灘地方」で完成されたものですから、局地的な特色が強い技法ではないか、ということを念頭においています。もっと当事者の蔵の環境に近い地方の製法を参考にすべきと、様々な条件を勘案して、伊丹地方のスタイルを独自に解析してここに至っています。

 

 

2、生酛と山廃酛の違いは?

さて、上記のような当蔵の造りですが、よく尋ねられるのが、「酛摺りがなければ、生酛でなく山廃(山卸廃止酛)に近いのでは?」という問いです。

これについての回答はすでに述べております。「酛摺り」つまり「山卸」が開発される以前の古いスタイルでは、当然「山卸」はありません。また当蔵の場合は、適宜手で混ぜながらも、部分的に破砕することもありますから、「酛摺り」に近い効果を厳密にコントロールして行っているともいえます。「摺り」はしなくても、近いような効果は「手酛」で得られるというわけです。

一方、「酛摺り」を廃止したスタイルの「山廃酛」的な生酛系酒母ですが、これは端的には、それ以前の生酛とは違う条件のもとに仕込まれます。水を多めに、温度を高く仕込みます。このため、酛摺りを省き短期間に仕上げることができるのです。

具体的には「山廃」では、汲水が多く、水でしゃばしゃばになるので、櫂入れ程度で物量をいっぺんに混ぜ合わせることが可能になります。また、仕込温度も高いため、麹の酵素による加水分解反応が強まり、ある程度物量を混ぜ合わせれば、後は勝手に溶解糖化はすみやかに進行するわけです。

しかし、そんなことで済むなら、江戸時代の人だってそれでやっていたのでは? と思いませんか。汲水を増やしたり、「寒酛」の伝統に背いて高めの温度で仕込んだりしたら、酒母に雑菌が生えやすくなるのに、それでどうしてうまくできるの? という疑問が浮かびます。

 

しかし、実は、この問題も同時期に解決されていたのです。

山廃酛の発案と同時期に、生酛の出来を左右する重要な殺菌反応として「亜硝酸反応」が発見されたのです。これは硝酸を多く含む硬水で起こる反応です。このメカニズムを人為的に発生させるために、酒母の仕込み時に、仕込み水に精製したミネラル剤(無機塩類)である「硝酸カリウム」を添加することが薦められるようになりました。こうすることで「亜硝酸反応」が容易に起こり、圧倒的に衛生度が高められるようになるのです。

無論、硝酸イオンが多い水(多くはやや硬い水、あるいは有機物などが多い場合も)を用いていれば生酛だろうと山廃だろうと、亜硝酸反応は高めに出てうまくいきますが、もともと日本は地形が細長く、山に降った雨はすみやかに海へ流れてしまいます。どこもかしこもミネラルが少ない水が多いです。(これは、日本の水が軟水かつ清潔であるという意味で、飲料水としてはたいへん恵まれているのです)

しかしこうした硝酸イオンが少ない水でも、適当なミネラルで水を加工すればもっとやりやすくなります。特に「山廃」は、「硝酸カリ」添加を背景にして、汲水多め+仕込み温度高めでも雑菌を抑制できるようになり、面倒な酛摺りを省くことができるため、地域を問わず人気製法として普及しました。そして酛摺り型の「生酛」はすみやかに見られなくなってしまいました。

しかし、「無機塩類」という精製したミネラルを購入して添加するという近代的なやり方は、生酛系酒母そのものの存在を危うくしてしまう思考法でありました——。

 

「山廃酛」と同時期に提案された「速醸酒母」は、もっと進んだ革命的(?)な考え方を採用しており、既成の酸味料であるところの「醸造用乳酸」を添加することで、生酛系酒母のキモである「乳酸菌による乳酸発酵」そのものを不要にしてしまうものでした。乳酸発酵過程が不要ですから「速醸酒母」は、「生酛」や「山廃酒母」のさらに1/3の期間で完成します。しかも、ほぼ失敗がないという技術です。

山廃酛において「硝酸カリ」の添加に違和感がないなら、無論「醸造用乳酸」の使用にも異を唱える状況でなかったわけです。

結果として「山廃酛」が流行ったと思ったら、ほどなく、もっと簡単で安全な「速醸酒母」がスタンダードとなり、結果として「生酛系酒母」そのものが、ほぼ絶滅するという有様になってしまったのです。考えてみれば、当たり前の趨勢であります。

こうして世界に誇る日本の発酵技術であり、「ものづくり」精神の極みというべき「生酛系酒母」が、「無駄に面倒で再現率の悪い製法」として忌み嫌われ、誰もやらなくなって廃れてしまったのです。

残念極まりないことといえます——。

 

3、生酛の興亡

ということで、生酛系酒母の変遷をまとめましょう—–

①、生酛以前

大陸(中国)由来の乳酸発酵系の酒母として「菩提酛」があります。この菩提酛を採用し、「南部諸白」を醸造する奈良地方が、江戸初期においては日本最大の銘醸地でした。

②、生酛

江戸初期頃から伊丹にて「寒酛」が勃興します。これは、その複合発酵的なメカニズムとしても、発酵現象を司る乳酸菌の種類においても、菩提酛とは相違するところが多く、まさに日本独自の技術といえるでしょう。江戸中期にかけて、「寒酛」を駆使した伊丹地方の美しい酒が、日本酒の最先端となります。

その後、江戸の後期頃より、灘地方で、最先端の合理化技術といえる「酛摺り」が完成します。こうして灘地方が質・量ともに図抜けた存在となり、日本酒の最大供給地となります。

次に明治期の終わり頃には、酛擦りすら簡略化した「山廃酛」が国税庁の技師によって提案されます。この「山廃酒母」は、「硝酸カリ」を添加して強制的に「亜硝酸反応」を生み出す技術を背景にして、全国的に広まり、一挙に旧来の「生酛」に取って代わるようになりました。

③、生酛以後

しかし、その後ほどなく、さらに合理的な「速醸酛」があらわれます。そして大正〜昭和の頭頃にかけて、山廃を含む生酛系酒母はどんどん衰退し、戦前の頃には、ほぼ歴史から姿を消してしまいました—–

というわけです。時代の趨勢として仕方ないこととはいえ、残念極まりないことであります。

こうした歴史を鑑みると、戦後70年かけて、やっとまた生酛系酒母がその存在意義をあらわにしている、記念すべき時代が今といえるのかもしれません——。きっと、私たち皆の価値観が大きく変動している時期なのでしょう。

 

 

 

さて、酒造シーズンも終わったお蔵様も多いでしょう(当蔵はまだ続きますが—)。これからはしばらく、技術者向けに詳しい技術的なTipsを書いていこうと思っていますので、来季以降に生酛をやりたいと思われた方の参考になれば幸いです。