酵母無添加の生酛ができるでしょうか? 4

さて、生酛ですが………。
なんとかかんとか、孤独な酛摺作業を終えました。
ここからは、「折り込み」という作業です。
酛摺で、麹が破砕され、じっくりと酵素液が掛米にしみ込んでゆきますね。
酛摺の回数を重ね、また時間が経つにつれて、どんどん米が溶けると、
全体はペースト状になってゆきます。
それに従って、複数の半切り桶(酛摺するためのひらべったい桶)の中身を、だんだんまとめていきます。表面積が広いと雑菌汚染しますので、米の溶け具合と相談しながら、合併してゆくのです。
半切りが5枚あるならば、まず2枚にまとめ、最終的には、酒母タンク(壷台)ひとつに入れることになります。

さて、すべてが、ひとつの酒母タンクに入ったら「打瀬」という低温期間が始まります。
5~6度という低温を数日続けることが重要です。
ここで温度が高いのは御法度。
アルコール発酵能力が低い、レベルの低い酵母がいきなり発育してしまい、
まともな酒を醸すことができない、失敗酒母になってしまいます。
「打瀬」期間の目的は、かなりの低温で、酵母類の活動を押さえることに主眼が置かれます。

現在の知見では、酵母の発育の前に、2つの菌が繁殖するのが望ましいとされています。
まずは、「硝酸還元菌」というなんだか難しい名前の菌。
そして、「乳酸菌」が相次いで発育することになっています。

酵母は低温に弱く、硝酸還元菌と乳酸菌は比較的低温に強い。
この違いをうまく利用して、生酛は造られます。

つまり生酛は、前半部分をかなりの低温でやらなければ、うまくいきません。
年がら年中酒造りをしていた時代でも、真冬限定の技術だったのでしょう。





硝酸還元菌は、水垢の原因になる「シュードモナス」という菌です。
硝酸という窒素由来の成分を、亜硝酸というちょっと危険性のある、
殺菌作用のある物質に変えてしまいます。


また、乳酸菌はご存知ですね。糖分などのエネルギー源から「乳酸」を造ってくれる、すばらしい微生物です。さまざまなタイプがありますが、有用なものは、ヨーグルト、チーズ、キムチ、漬け物などを造ってくれますね。生物の体にも住み着いています。人間の口腔、腸、肌、皮脂腺などにもおりして、例えば、我々の唾液にだって、うじゃうじゃと生きております。
例えばある種の乳酸菌が口に多い人は、虫歯にならないそうです。また口臭の発生源も性質の悪い
乳酸菌が一因だとか………? こうした知見は、健康食品等に技術転用されています。
例えば、スウェーデンでは虫歯にならない人の口からとった乳酸菌を乾燥させたタブレットで、口臭を防ぐような商品も開発しているようです。(バイオガイアという企業の製品です)
おそるべし乳酸菌……発酵産業どころか人間の生存そのものにも密接に関与している菌ですね。


さて………
生酛の打瀬期間中、低温に強い、この硝酸還元菌と乳酸菌が、相次いで生酛に増えることになります。
硝酸還元菌が、硝酸から「亜硝酸」を生成します。
また、ちょっと遅れて、乳酸菌が生育し、「乳酸」を主体とした酸を出します。

またこうした酸が出てくる頃は、米も溶けて糖分が生成され、ジャムのように糖分が高い状況になっています。微生物にとってはたいへんハードな環境です。

こうして生酛液の中の、野生酵母や産膜酵母、酢酸菌や酪酸菌など、様々な望まれない雑菌は、
抑圧され、そのうちに淘汰されるのです。
すると結局、生酛の中には乳酸菌だけが残ります。

この乳酸菌だけが生きているタイミングで、酒造教科書にのっとり「培養酵母」を添加すると、「生酛」は成功したも同然です。

*なお……生酛も山廃も、基本は、培養した酵母を、適量加えて造られるのが普通です。
生酛・山廃は「自然な造り」だから、培養酵母を用いないで造られると思ってらっしゃる方
が少なくないようですが、それは違うんですね。培養酵母を入れない生酛・山廃は、実に難易度が高いので、別途、その旨を表記しているはずです。



さて。酵母類は(亜硝酸にはめっぽう弱いのですが)、酸だけだったら、いくら高くても平気の平左です。濃糖にも強いので、培養酵母が加えられたら、酒母液の温度を上げてやるだけで、乳酸菌と共存して、どんどんその酵母は増えてくれます。
やがて酵母はアルコールを出しはじめます。
すると、乳酸菌は死んでしまうので、最終的に酒母は、
純粋な清酒酵母だけが存在する酒母になる、という理屈でした。



ところが、今回の当蔵の取り組みは、「酵母無添加」でやるというものです。
「江戸時代の手法を再現したもので、教科書の生酛造りとは違い、培養酵母は入れない」
というものですね。これは難しいです。

また、当蔵には特別なハンディもありました。
先述した「亜硝酸」が、経験上、あまり出ない……このため、その抗菌力に頼れない、
という問題もありました。



この2点の難題を抱えた造りのため、相当、設計を練り込む必要があったわけです。

まず「亜硝酸」が少ないことへの対策としては……。
「亜硝酸」がないと、野生酵母を、途中で抑制・淘汰することが難しい。
このため、酒母の仕込み水を徹底的に減らしてスタートして、通常よりも酵母が
繁殖しにくい状況を演出したのでした。

次に、「培養酵母」を使用しないで、ちゃんとした酒になるのか? という点です。
これは、麹にくっついて酒母に持ち込まれてくる、様々な酵母の中で、6号系統のものが必ずいるだろうから、これを、自然選択的に増やすのだ、と考えていました。

そう。一般的に麹には、大量の微生物がついています。
研究者に言わせると「麹は雑菌の巣」のようなものだといいます。
様々な酵母が、空気にのってそこらじゅうを漂っていますから、これらは麹に大量に付着しています。

衛生に徹底的に気を使い、酒母の初期で、レベルの低い野生酵母などが、
絶対に立ち上がらないように、じっくりと低温で「打瀬」をすすめれば、
酵母の中でも、とりわけタフなはずの「きょうかい酵母」、
つまり6号酵母が、きっと優先的に生えてきてくるはず!
これで、酵母無添加でも、いい酒母ができるだろう。
これが、私の戦術でした。

しかし、この目論みが、完全に崩れてしまう事件が起こったのです。

予想しなかったことに、今年は予想よりも亜硝酸反応が出てしまいました。
ひいては、教科書通りの理想的な酒母経過になったわけです。

しかし我々は、「亜硝酸反応」に頼られないとばかりに、酒母の仕込水を異常に少なくしたり、独自の「衛生度アップ作戦」も徹底的に行っていました。
結果的に、相当クリーンな酒母になっていたのでしょう………。
乳酸菌が増え切る頃には、麹由来の酵母は、ほかの雑菌ともども、一匹残らず全滅してしまいました。

こうしたことが現実に起こるとは、信じられませんでした。
実は私は、仮に亜硝酸反応が出たとしても、酵母や雑菌の類いが、
完璧に全滅するようなことが、酒母の中で起こりうるとは、信じていなかったのです。
あくまでも「理論上、起こりうること」としか思っていなかった現象を、我々は
目の当たりにすることになりました。

困ったことに、このように酵母がゼロレベルまでに根絶されてしまっては「酵母無添加」の酒母になりません。
培養酵母を添加すれば、まさに「教科書的には」理想的な酒母になるとはいえ、
今回は、それができないのです。

次回は写真入りでいろいろと解説いたしますが、
こうした予期せぬ展開のため、我々は新たな奇手を放つ必要に迫られ、
結果としてこの生酛は、完成まで50日近くかかるという、とてつもなく
難儀な代物と化してしまいました……。


続く……