御盆が終わってしまいましたが、皆様、いかに御過ごしでしたでしょうか?
私も、先祖を拝んできましたよ。
墓の側面に入り切らなかった人は、法名碑に載ります。この碑はまだまだ余白がありますので
私の孫くらいまで格納可能ですよ。
六号酵母の創成者である五代目のひいじいさんから 名前が載ってます。
戦後の混乱期まっただなかの、昭和22年(1947年)、彼は満53歳で逝去しました。
死因は結核です。
その頃、「新政」は企業合併令で銘柄がなくなっていた時代でした
(その後、昭和27年=1952年に単独営業に復帰し銘柄復活)。
とにかくめちゃくちゃな時代だったうえ、当時、造り酒屋で結核というのはタブーだった
ということで、彼は一目につかぬよう隠されて、分家の離れでひっそりと死んだとか。
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私が、蔵に帰って驚いたのは、我が蔵発祥の、きょうかい六号(六号酵母)というのは、
日本酒史上にとって、すばらしい奇跡的な存在であるということでした。
今から80年前の昭和5年(1930年)に、国税庁技師により採取され、
度重なる培養と実地試験を経て、ついに昭和10年(1935年)に全国へ販売開始された
この六号酵母。
この酵母がなければ、現在の日本酒の味がまったく違うものになっていたという事実について、
たいへん荷が重く感じたものです。
遺伝学上、6号以降の酵母は、近代清酒酵母—-つまり「吟醸酵母」と呼ばれています。
その高い発酵特性や香気成分の違い、そして味わい等の官能レベルでの違いが、既存酵母と
比べてあまりに大きかったことが推察されます。
他、きょうかい1~5号と、6号以降を識別する区別する客観的なマーカーとしては、
酸性ホスファターゼというリン酸を分解する酵素を生産するかしないかという基準もありました。
1~5号までは、野生酵母と同じく、酸性ホスファターゼを生産するのですが、
6号以降の「吟醸酵母」はあまり産生しないという共通点も発見されていました。
後に、ゲノム解析が可能になったおかげで、この特性の違いの裏付けも取れました。
今では、遺伝配列的にも、1~5号までのきょうかい酵母と、6号以降の酵母(現在は18号までありますね)はかなりの断絶があるということが明らかになっています。
(しかしながら、この6号以降の近代清酒酵母群は、学術的には、現在、
K-7<きょうかい7号>グループと呼ばれています。
この理由ですが、7号酵母は戦後、最大の頒布量を誇っていましたから、
実験で使われるのも7号が基本だったからでしょう)
ともあれ。以上の理由で、
日本酒の神の悪戯か、なんの因果か当蔵に降って湧いた六号と、
そしてその血を受け継いだ酵母たちによって、
日本酒の現在の姿が、形作られたのです。
これを、専門書では、以下のように表現しています。
「きょうかい6号は、当時頒布されていた1号~5号と区別される(中略)ので、
分離蔵に住みついていた優良な野生酵母であったと推察される」
「添加した6号を再釣菌したのが7号であって、分離した9号、10号は6号又は7号
を再釣菌したものと推察される。このようなことから吟醸酵母は、6号を親株とした
グループであると思われる」
ということで、
「協会6号、7号、9号、10号(吟醸酵母)は、多くの性質が同じであって区別しにくい」
「協会6号を親株としたグループが吟醸酵母であって、わずかな変異で生じた性質の違いが
酒造りに利用されている」
(以上は、「清酒酵母の特性と生態」竹田正久 著/東京農業大学出版会 からの引用です)
秋田の片隅で、よくもこんなすごいことが起こったなあと思います。
今、この文章を書いている部屋の隣、5メートルくらいの場所で、昔起こったこと
ですが、いやー、奇跡もいいところですよね。
秋田は「酒のくに」と呼ばれますが、その真骨頂みたいな出来事ではないでしょうか?
うちでも、「6号は現存する最古の酵母ですよ~」くらいは言いますが、
まあ、一般的には上記のような真の歴史的価値までは、話すほうも難しくって、
説明しきれてません。
(秋田県民でも知っているのは、滅多にいないのでは?
もしかして、完全に理解しているのは、うちの蔵の社員くらい—–?)
ということで、御盆の回の結論としては、
うちのひいじいさんは大変なすごい功績を残されたのだなあ、ということです。
大阪大学醸造学科では、ニッカウヰスキーの創始者の竹鶴政孝さんと同期で
学業の覇を競い合ったといいますので、まあ、大変できる方だったんですね。
また、当時、当蔵は素晴らしい職人がたくさんおりました。
酒母屋として、直接的に、酵母の育成を携わっていたのは、
後に秋田の酒蔵「高清水」さんの初代杜氏となり、「現代の名工」の名誉ある第一号にも
輝いた鶴田百治氏です。
他にも、あっと驚くすごい方もいますが、まあそれは秘密。
ちなみに、五代目は、戦後まもなく昭和22年(1947年)に亡くなっています。
長野の「真澄」さんから、山田正一先生の手で7号酵母が発見されたのは、その前年の昭和21年。
たまたまでしょうが、なんとなく不思議な感じです。
また、戦中の米不足で、酒造方法がかわったのは、さらにその前の昭和18年。
これにより、醸造用アルコールの使用が認められ、純米の時代が終焉を迎えていました。
五代目は、短くもはかない、そして日本酒史上もっとも栄ある「純米・吟醸」の時代とともに
逝ったように思っています。
ということで我が蔵にとっては、六号酵母とは、比喩でなく佐藤卯兵衛その人なのです。
えー。
あまり先祖の時代のことを言うと、自分の腑甲斐なさが身にしみて、
人間は代を経て退化することも珍しくないのか—-と絶望的な気持ちになりますので、
ここらへんで切り上げますが、
かように、私のひいじいさんは、菌に好かれた人だったわけです。
でも、当人は、酵母はまだしも、結核菌に好かれるとは思わなかったでしょうね。
それはそれで、本望だと思って亡くなったのでしょうか?
南無阿弥陀仏—-