菩提モトについて3

さて—–菩提モトについてまとめておりませんでしたね。
おさらいをしますと、「菩提モト」とは、奈良県の正暦寺(しょうりゃくじ)で生まれた「日本酒の原点」と呼ばれる酒母製法です。
14世紀の民間書物である「御酒之日記」(ごしゅのにっき)にその製法が詳しく記されております。
で、前回までは、菩提モトの特徴は「生米」を使うということ、まで書いたのでした。

そう。
菩提モトの最大の特徴は、酒母を一番はじめの一手に、「生米」を使用することなんです。

これもまたおさらいでしたが、通常、日本酒造りで蒸米を溶かす場合、糖化酵素を豊富に含んだ「麹」を用うものでしたね。

しかし実は、微量ながら米そのものにも糖化酵素が含まれているのです。
これは火にかけたり、蒸したりすると壊れてしまいますので、生米を使うことで効果を発揮します。

植物の酵素を使用して、穀物を溶かす—-
これって何かに似ていますよね。そうです、ビールですね。
麦を水につけておくと、芽が生えて来ますが、この芽の部分に酵素がたらふく
含まれております。ビールでは、この酵素を利用します。
釜の中で、酵素が最大に効果を発揮する60度近辺の温度まで麦芽汁を
熱して、短時間で完璧に糖化するのでしたね。


「菩提モト」では、まずはじめに生米と蒸米(炊いた米でも可能)を一緒に水につけておきます。
すると蒸米が溶けて、微量の糖分が米汁に発生します。これは乳酸菌だけが都合良く増殖するレベルの量の糖分なんです。ビールと違って60度とか加熱はしません。
米がまずまず糖化するだけでなく、乳酸菌も増殖しやすい温度ということで、25~30度くらいが常法になっています(このため、菩提モトは夏に造るものでした)。

このような環境で、乳酸菌が増え、酸が発生してきます。この酸っぱい汁を「そやし水」
といいます。(この「そやし水」が重要なので、「菩提モト」は「水モト」ともいいます)
酸度が3以上に達して、かな~り酸っぱくなったら—–ここで乳酸菌の役割は終了!

ここで麹と蒸米(漬けておいた生米を蒸す)を追加します。
こうして、酵母が育つに適した、糖分を多く含んだ酸性状態の培地が完成いたします。

酵母が増えてアルコール分が高まってゆくにつれ、乳酸菌は淘汰されてゆき、理論的には
最後に、純粋に酵母だけで満たされた酒母ができあがる—–
これが「菩提モト」の基本的メカニズムなのです。
昔の人ってすごいですね! よくこんなことを体験的に編み出したものです。


ただし「菩提モト」は、雑菌汚染の影響を被りやすい製法です。
はじめの米汁で、乳酸菌だけが都合良く増えてくれず、雑多な菌類が沸きやすいのです。
このためけっこうダイナミックな発酵臭がすることがあり、
そういう意味で「腐れモト」という俗称もあるくらいです。

もちろん、こうした雑菌たちも、酒母が出来てゆくにつれ、高い酸度とアルコールで死んでくれる—-はずですが、中には強い雑菌もいて生き残ってしまうこともあるでしょうし、
ある種の雑菌が増えすぎると、酵母が増殖しにくくなってしまうこともあり得ます。
総じて、技術的にもたいへん難しい酒母だといえるでしょう。

「菩提モト」は、一時期は全国に広がりましたが、上記のような理由で、地域的に甚だしい出来不出来の差があったようです。
最終的には「生モト」「山廃モト」にとってかわられ、ほぼ消滅の憂き目にあってしまいました。

実際、我々の菩提モトも、想像力をかき立てる、えも言われぬ香りが酒母周辺に立ちこめ、
「大丈夫ですか社長? 使うんですか社長?」と蔵人が心配そうに尋ねてくるほど。
最後には、イソ吉草酸という若干納豆のような香り。バターのような香りである酪酸なども感じられ、乳酸菌以外に、いろんな菌のバトルロイヤルになっているような感じでした。

結局、周囲の白い目に耐えきれず、安全策をとりました。
必要な酸度に達しましたら、いったんこの乳酸発酵汁、そやし水を、殺菌することにしたのです。かなりめんどうくさいですが、適当なサイズに、そやし水をわけて、湯煎で65度以上に加熱。こうして、火入れ殺菌しました。
この無菌になったそやし水を、また酒母タンクにあけかえて、酵母を接種。
最終的には、無事に綺麗な(?)酒母になったというわけです。
あのおそるべき発酵臭も、酵母が食べてしまったのか、酒母の最後には、
かなりなくなってしまいました。

このような壮大な大人の実験により、「菩提モト」が実が大変な製法ということがわかりました。
昔は、かなり事故が起こったんではないか? ということが、体験的に理解できたわけです。

しかし。
菩提モトの出来不出来に関係するかもしれない面白い研究成果がここ数年でてきているのです。
最近の奈良県の調査によりますと、オリジナルの正暦寺の「菩提モト」には、他にはない珍しい特徴があるそうなのです。

そもそも正暦寺の水には「三年経っても腐らない」という言い伝えがあるとのこと。この水を調べてみた結果、ラクトコッカス・ラクティスという優良乳酸菌が生育しているのがわかったそうです。

(このラクティス、一般的にはチーズとかヨーグルトに使われたりする乳酸菌です。乳製品に生えやすい菌なのに、まったく不思議です)

正暦寺の仕込み水を用いて菩提モトを造りますと、この正暦寺乳酸菌(ラクティス)が他の乳酸菌を速やかに退治してしまうということです。
別種の乳酸菌を大量に添加しても、十数時間でラクティスがそれらを殲滅して、遷移してしまうのというのですから、すごい。
この調子で、他のさまざま雑菌も、この正暦寺乳酸菌がやっつけているでしょう。

「正暦寺の水が腐りにくい」のが、この菌のおかげかどうかまではわかりませんが、
正暦寺の仕込み水が、まさしく神がかり的に酒造りに向いた水であることは確かでしょう。


最後に—-豆知識になりますが、この「菩提モト」の製法が記載されている「御酒之日記」(ごしゅのにっき)は秋田藩主・佐竹氏の所有していたものということです。

関ヶ原以降、秋田へ転封される前、佐竹氏は平安の昔より常陸の国(現在の茨城県周辺)を統べておりましたね。「御酒之日記」とは、この常陸に伝わる中世の酒造技術をまとめた重要な文献なんです。

「菩提モト」をはじめとする乳酸菌発酵の技術のほか、精白した米で酒を仕込むこと、段仕込み、腐敗防止の火入れなど、現在の日本酒の製法の原型が漏れなく記されています!
火入れなんていうのは、パスツールが低温殺菌法を提唱する500年前にすでに行っているのですから、おそれいったものです。
「御酒之日記」は、日本酒史、超最高度に重要な文献のひとつと言って間違いないでしょう。

偶然とはいえ、このような日本最古の酒造技術書が、「酒のくに」秋田県とつながっていたのは興味深いことといえますね。

では、また。